原作は村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録。
ここにもチェーホフの戯曲。
昨年末に観た清水邦夫の脚本『楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~』の舞台に感動して、脚本を手に入れて読んだ。
そこにも、
ロシアの作家アントン・チェーホフの戯曲である
『かもめ』『三人姉妹』の劇中劇。
そして『三人姉妹』のラストの台詞。
「楽隊は、あんなに楽しそうに鳴っている。
あれを聞いていると生きていこうという気持ちになるわ。
やがて時がたつと、私たちのことも忘れられてしまう。
私たちの顔も、声も、何人姉妹だったかということも、みんな忘れられてしまう。
でも、私たちの苦しみは、あとの生きる人たちのよろこびに変わって、幸福と平和が、この地上に訪れるだろう。
そして、今こうして生きている私たちを思い出して讃えてくれるだろう。
わたしたちの生活は、まだおしまいじゃないわ。
生きていきましょう、生きていきましょうよ!
もう少ししたら、なんのために私たちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。
それがわかったらねえ、それさえわかったらね!」
〈マーシャのセリフ〉
「生きて行かなければ……。生きていかなければねえ」
そしてドライブマイカーでの劇中劇。
『ワーニャ伯父さん』のラストの台詞。
<ソーニャのセリフ>
でも、仕方がないわ、生きていかなければ!(間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長いはてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてそのときが来たら、素直に死んでいきましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなに辛い一生を送って来たか、それを残らず申し上げましょうね。すると神様は、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るいすばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい!と思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの……。ほっと息がつけるんだわ。
ほっと息がつけるんだわ!その時、私たちの耳には、神様の御使たちの声がひびいて、空一面きらきらしたダイヤモンドでいっぱいになる。そして、私たちの見ている前で、この世の中の悪いものがみんな、私たちの悩みも、苦しみも、残らずみんな――世界中に満ちひろがる神様の大きなお慈悲の中に、呑みこまれてしまうの。そこでやっと、私たちの生活は、まるでお母さまがやさしく撫でてくださるような、静かなうっとりするような、ほんとに楽しいものになるのだわ。私そう思うの、どうしてもそう思うの……。
お気の毒なワーニャ伯父さん、いけないわ、泣いていらっしゃるのね。あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でも、ワーニャ伯父さん、もう暫くの辛抱よ。……やがて、息がつけるんだわ。……ほっと息がつけるんだわ!
ほっと息がつけるんだわ。
濱口監督が、清水邦夫の戯曲の影響を受けていたかどうかはわからない。
が、少なくともチェーホフの戯曲に傾倒していることは間違いないと私は思う。
そしてもうひとつ。
この映画には、沈黙が大きい。
言葉の否定。
いや、言葉によって分かり合えるという幻想。
だから、ドライブマイカー。
セックスという行為。
ワーニャ伯父さんの俳優たちは、
日本語、英語、韓国語そして手話で演じる。
多くを語りながら、音のない世界にいるような
錯覚すら覚える。
「運命を受け入れるということは、決して運命に屈したわけではなくて、自分の力ではどうしようもないことを受け入れ、そのなかで最善を尽くすことなんだ」とあるひとは三人姉妹の感想を述べていたが、この映画にも同じことを感じる。
絶望から忍耐、そしてその先の希望。
この映画のラストシーンは、明るい。