八軒屋浜船着場

2020.11.5.木

今日は大阪水上バスさんに話を聞きに

八軒屋浜の川の駅まで行きました。

 

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歴史はWikipediaから➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖

上町台地北端の西麓、天満橋と天神橋の間において、平安時代までに渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれる外港が成立した。大江、国府津窪津、楼津などとも呼ばれ、摂津国の政治の中心であった渡辺の地はまた、四天王寺住吉大社高野山、そして熊野三山への参詣道である熊野街道の起点として駅楼が置かれ、海陸交通の要地として栄えた。

大阪平野の形成にともなって西へ移動した河口と離れて河港に姿を変えたことや、遷都等の要因によって外港としての役割は縮小したが、同地における寄港地としての機能は近世以降も残ることになる。

江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船のターミナルとなるなど、淀川舟運の要衝として栄えた。

このころの八軒家浜の様子は多くの文芸・美術作品に描かれている。十返舎一九東海道中膝栗毛』第八編には、舟を下りた弥次郎兵衛と北八が「大坂の八軒家」で上陸する場面がある。また摂津名所図会「八軒屋」、浪花百景「八軒屋夕景」が知られる。

明治以降に舟運は衰退。1911年に大阪市電今橋天満橋筋線が土佐堀通に敷設されたが、1923年から1944年まで御祓筋(熊野街道)との交点に同線単独の八軒家停留場が設置されていた。

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